ダーウィン空襲

こんにちは、レポートの宿題が多くブログ更新まで手が回っていなかったあーるです。

 

皆さん昨日は何の日か知っていますか?

昨日2月19日は、ダーウィン空襲の日です。

ダーウィン空襲とは、

日本軍が、1941年12月7日にハワイのオアフ島真珠湾にあるアメリカ海軍の基地を南雲艦隊司令率いる加賀、赤城、蒼龍、飛龍を中心とする第一機動部隊で爆撃したのに続き翌年1942年2月19日にオーストラリアのダーウィンにあるオーストラリア海軍基地と空軍基地を同じく。

加賀、蒼龍、飛龍を中心とする第一機動部隊で攻撃したというものです。

 

4隻の空母からは計188から242機(諸説あり)の攻撃機が飛び立ち、少なくとも243人の方が亡くなり400人以上がけがを負いました。

 

オーストラリアは昨日でこのダーウィン空襲から75年を迎え各地で慰霊式典が開かれました。

テレビでは、当時21歳で現在96歳の水兵の方のインタビューなどが放送され、日本で言う東京空襲のような感じだなと思いました。

 

このような、歴史を持っているにもかかわらず、

文化的にも、経済的にも強いつながりを持っているオーストラリアと日本、

*これからもその関係が大陸の国に干渉されることないよう続いていってほしいものです。

 

皆さんダーウィン空襲って知ってましたか?

学校では習わない範囲です(^_^;)

この記事は、本当は写真などつけるつもりだったのですが、時間がなくこのまま公開します。

次回の記事には、実際に爆撃されたダーウィンに行ってみて感じたことなどを書きたいと思います。

では。

*この文は、馬鹿の一つ覚えのように反中反韓を叫ぶ右的な発言ではなく、客観的にこの国の将来を考えたものであると理解していただけたら幸いです。

カカドゥ国立公園

今日は、ダーウィン旅行で行った、カカドゥ国立公園について書きたいと思います。

カカドゥ国立公園は、ダーウィンにある世界有数の面積を持つ国立公園で、世界遺産にも登録されています。

 

日程の記事にも書いたように、カカドゥ国立公園へは、二日目と三日目に滞在していました。

二日目には、ダーウィンから車でカカドゥ国立公園ないまで行き宿泊しました。この日はその日泊まった”Aurola Kakadu”というについたのが、二時頃だったのでそのあと近くにあるトレッキングコースを歩いただけでした。(途中スコールのような雨に降られてびしょびしょでした。。。)

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カカドゥ国立公園へようこその看板。

 

日程三日目、(カカドゥ二日目)は、朝五時に起きて、イエローウォーターリバーまで車で行き、イエローウォータークルーズをしました。

クルーズに行く前、ホストマザーはアボリジニの人が運営しているクルーズだから品質が信頼できんとか何とか言っていましたが、クルーズは素晴らしいものでした。

アボリジニニュージーランド人のハーフの方が船頭で、何本も流れている川の構造だけでなく、雨季で(今は雨季真っただ中です)あふれた水で構成されたバックウォーターまでっていて、野生動物やブッシュタッカー(食べれる野生の植物)などの説明もとても充実していました。

 

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三十人乗りくらいの小さいボートでぎりぎりボートが通れる木々の間をすり抜けていく船頭さん(すごい)。

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3mくらいのクロコダイル船から四メートルくらいのところまで近づきました(^ー^)

このボートには、手を船の外に出すなというルールが存在します(゚д゚;)

 

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こんな蓮のような花も咲いていてきれいでした。

 

オーストラリアには、アボリジニとの問題が存在しています。

1900年代後半には、十八世紀にイギリス(オーストラリア植民地政府)が行った非人道的な政策(個人的な解釈です)に対してデモなどが行われ、市民権などのアボリジニの人権問題がオーストラリア内で社会問題となりました。

一方、その後オーストラリア政府のアボリジニに対する大きな公的扶助によって、堕落した生活を送るようになってしまった人が少なくなく、今はオーストラリア人の中ではなんで俺たちの税金で彼らを養わなければならないんだ!という意見が聞かれます。

こういった問題を抱えているアボリジニについて、彼らの土地であるカカドゥに行って、思ったことがあります。「彼らには彼らの家と生き方があるんじゃないか?」これは、そのボートの船頭さんを見ていて思ったことです。彼らは、川やバックウォーターの構造植物の便利で有効な使用方法などを知っていて、彼らは自然に住んでいるんだなと思いました。しかし、一度西洋文化を持つ都市に出しまえば彼らの知識は役に立ちません。

自分は、彼らは彼らたちで、自然と暮らすべきではないだろうか?もし西洋文化を持つ都市に出たいならやはり西洋式の教育を受けるべきではないだろうか?

 

はい。カカドゥ編いかがでしたでしょうか?

次回は、ダーウィン空襲、軍事、フライトドクター。を三つ同時にやるか、いくつかに分けてその中の一つを取り上げると思います。

ダーウィン旅行

こんにちは。学校が始まり、また6時半起きに戻りまして眠いです。

今日から、何回かに分けてダーウィンの旅行について記事を書きたいと思います。
まず、今日は、日程です。
今回は、五泊六日の旅行でした。

その六日間の日程はこんな感じです。

1日目
夕方に出発 夜の3時間のフライトでダーウィンへ。この日は空港近くの古い?ホテルに泊まりました。

2日目
朝9時ごろに起きて、カカドゥ国立公園へ行きました。この日の宿泊は、国立公園内のホテルいろんな設備が完備されていてすごく快適だった。

3日目
朝5時に起きて、イエローウォータークルーズをしました。クルーズの後は、朝ごはんを食べてダーウィンへ帰ってきました。この日から最終日までダーウィン内のホテルに泊まりました。

4日目
この日は日程上オフの日だったので、ダーウィンにある博物館を回りました。

5日目
この日は実質ダーウィン最後の日でした。この日は、リッチフィールド国立公園へ行き、滝を見ました。

6日目
朝四時起きで6時のフライトに乗り12時ごろにはアデレードに帰ってきました。

こんな感じでダーウィンを楽しんできました。
次の記事は、カカドゥ国立公園?だと思います。

明日から学校!

ども ここ5日ほどオーストラリア、ノーザンテリトリーにあるダーウィンに行っていました。世界有数の大きさを誇るカカドゥ国立公園や、ダーウィンの軍事博物館に行き、とても充実した旅行でした。

 

ところで、自分の通っているヘンリーハイスクールは明日から一学期が始まります。ヘンリーハイスクールは四学期制で各学期の間に2週間の休みが入ります。

年末のターム4の後の休みは季節的に夏休みなので長いです。

1月下旬~4月中旬  ⇨ターム1(一学期)

5月上旬~7月中旬  ⇨ターム2(二学期)

8月上旬~10中旬   ⇨ターム3 (三学期)

11月上旬~12月中旬 ⇨ターム4(四学期)

 

前回の記事にも書きましたが、今年は一年間高校一年生(year10)をやります。

 

ダーウィン旅行記はまた記事にするので待っててください。

 

 

帰国?

ども。

皆さんお久しぶりです。

一ヶ月ほど遅れましたがあけましておめでとうございます。

昨日今日と日をまたいでオーストラリアに帰ってきました。

今年は、year10(高校一年生)を一年間やる予定で、来年からは、IBを取りたいと思っているので、今年が英語や、遊びを思う存分できる年だと思います。そこで、今年の抱負は

「指数関数的に進化する」です。この本腰を入れて学校以外のことができそうな今年を無駄にしないためにも、来年からに備えるためにも、直線ではなく曲線で成長したいです。

 

ところで、オーストラリアへの帰国は、飛行機での国際間の移動にもだいぶ慣れてきて問題なく?オーストラリアに帰ってこれました。(メルボルンの税関のセキュリティーでカバン開けましたけど)

 

しかし、海外に住んでいる方など海外にいることが長い方は、帰国という単語が使いづらいのではないでしょうか?

自分の場合日本人でオーストラリアから日本に帰国していたので、オーストラリアへ渡るときは「渡豪」という表現が正しいのだろうとは思いますが、こちらにも住む場所がありこちらにいる期間のほうが長いと、オーストラリアに戻ってくることも帰国と言いたくなってしまいます。

 

そして、留学二年目のこのタイミングでホームシックw

短い時間日本にいて、家族のありがたみとかを改めて感じちゃったのが原因だと思うけど、

ついた日の午前中涙が止まらなくて寝てたw

 

でもよるご飯食べたらだいぶ収まって今はふつう。

 

今年もちまちま更新していきますのでよろしくお願いします。

クリスマス!

ども、クリスマスの日にフライトをとったあーるです(決してクリぼっち回避ではない)
今日の記事はオーストラリアのクリスマスについてです。

まず人生初めて過ごしたオーストラリアのクリスマスは、日本の年末のようです。
理由としては、
・みんな必死になってクリスマスカードを送る=年賀状
・クリスマスイブはみんなで教会にいく=除夜の鐘
・クリスマス当日は親族みんなで集まる=これは日本の年末と一緒
・親がプレゼントを渡す=お年玉
と言ったように、とても似ています。
そして、とてもキリスト教です。
とてもキリスト教って何言ってるのという感じですが、大半の人が、クリスマスイブとクリスマスに教会に行きます。とくにクリスマスイブは、子供まで来てキリストの誕生についてのサービスがあります。(とてもキリスト教が人々に浸透している証拠だなと)

まあそれについてはいろいろ考えることがありますがそれはまたの機会に。
ということで皆さんいいクリスマスを過ごしてくださいね。

ハウスボート(日本人抑留キャンプ)

ども、ホリデーでアデレードはマリー(マレー)リバーのハウスボートに来ているアールです。

 

今日は、ここ南オーストラリア州のマリー(マレー)リバーにある第二次世界大戦中の日本人抑留キャンプに行って来ました。(歴史大好き(*´꒳`*)
ホストファミリーによればオーストラリアには、いくつか日本人が抑留されていた場所があるそうですが、この日本人抑留キャンプは、他の抑留施設から逃げ出そうとした人達などが送られた場所で他の施設と比べるととても厳しい環境にあったそうです。

確かに、周りは川と森に囲まれていて、逃げ出すのはだいぶ大変そうでしたし、アリや蛇などの野生の脅威もありました。

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この蛇は昨日ブッシュの中で見たものでタイガースネークという毒ヘビだそうです。
噛まれたら治療までの猶予は二時間くらいだとか。。。

 

 

キャンプは、今となっては、70年以上前なこともあり多くのものは残っていませんでしたが、まだまだ彼らがここにいた証拠を見ることができました。

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キャンプにはキッチンとして使われていた小屋や、かまどだと思われる短い円柱を見ることができました。ちなみに彼らは、カンガルーの肉や野生のトマトやベリーを食べていたそうです

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他にも地面を平らにするローラーの残骸や小屋の基礎のようなレンガが残っていました。

この石碑には、
「このキャンプは1942年5月7日に設置され、日本人抑留者達がポンプステーション(多分川から水をくみ上げるものだと思われる)や蒸気船の燃料としてレッドガムの木を切り出す労働力として抑留さてれいました。キャンプは木や鉄から作られたキッチンや小屋寝泊まりするためのテントで構成されており、1945年5月6日に閉じられました」
と書かれています。(誤訳あったらすいません)

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少し興味深かったのが、終戦の三ヶ月も前に抑留キャンプが閉じれていたことです。オーストラリア政府はすでに日本の敗戦による終戦を把握していたのか?連合軍には三ヶ月前に勝戦を確信する判断材料があったのか?(まあヒトラー率いるドイツ軍が無条件降伏を受け入れる直前ですが)色々な疑問があります。

何にしろ、自分自身オーストラリアに日本人抑留者がいたことすら知らなかったので、ここで苦労した先祖がいたことを知らなかったのを少し残念に思うのと同時に、全ての物質的証拠がなくてなってしまう前に訪れることができたのを嬉しく思います。

(久しぶりの長文、読みにくかったらすいません)